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私の村の消防団詰め所
日本の消防団の実態

消防団員は不当に扱われている
 日本の消防団は救助・救命活動ができない。これは大正8年に消防署を設置する法律が発布されて以来、日本では消防団への新しい技術の導入がないからだ。市民が119番通報で想像する先は消防署であり消防団ではない。たしかに消防士ひとりひとりの能力は高い。しかしその絶対数が不足しているので、広域災害には不十分であることは公然と認められながら、なおざりにされてきた問題であったし、阪神大震災でその問題はもっとも悲惨な結果として浮きぼりにされた。それを消防団が補うことが必要なのだが、日本は謙譲を美徳とする国だからであろうか、消防団も「自分たちも救出・救命の訓練をしたい」などとは絶対に言わない。日本で緊急医療をするのは消防署の救命士のみである。そしてその絶対数が不足している。それを補うのが消防団なのではないのか。
 アメリカの消防士と消防団員の違いは、給与をもらっているかもらっていないかだけで、訓練・装備は同一である。「うちの消防署には消防士が40人いる。そのうち給与をもらっている消防士は4人で、あとの36人はボランティアの消防士だ。」というのが典型的なアメリカの消防署の運営方法だ。だから消防士と消防団員の協力に関しては多くの研究と配慮がなされている。日本では消防士と消防団員は完全に隔離され、その訓練は差別されているから、消防士と消防団員の間の摩擦がないと同時に、両者が協力して活動を行うという広域災害にもっとも必要なメリットもないのだ。災害対策の一員であるはずの消防団員には、必要とされる訓練も装備も与えられず、自分の安全を確保する防火服(注1)さえなく、不当な扱いを国から(労働条件義務違反)受けているのだ。

日本の消防団は伝統芸能か
 NFAには江戸火消保存会のビデオがある。これはアメリカ人にとっては日本文化が垣間見られて興味深いビデオだろう。しかし日本の消防を紹介するビデオとしては適切ではない。「火消し」はもはや伝統芸能であり、災害対策組織ではない。そう思いながらこのビデオを見ていたのだが、火消しの儀式は消防団に共通したところがあり、私はしだいに火消しと消防団が同じもののように思えてきた。ひょとしたら霞ヶ関は消防団を火消しと同じと考えているのではなかろうか。そう考えれば消防団がなぜ進化しないかが理解できる。消防団は災害対策組織ではなく、国の無形文化財として指定されているのかもしれない。
 「日本の消防団はすばらしい」とアメリカのある消防署長が写真を見せてくれた。なるほどそのりっぱな消防自動車には「。。。消防組合」と書かれている。消防組合とは日本では郡部の職業消防署のことである。どうも消防庁はこの「消防組合」を「消防団」だと彼に説明したようだ。消防庁も消防団の説明をあいまいにしたかったのだろう。日本の消防団は、信じられないほどその能力が低い。消防庁みずからが、日本の消防団は災害対策組織としては説明不可能な存在だ、と認めているのであろうか。

意味不明の定期点検
 私のムラの消防団が毎月必ず行う活動に「定期点検」というものがある。消防団の点検なのだから消防自動車やポンプを調べることなのだろうと、初めて「定期点検」に参加する日の私は考えていた。約束の7時半に詰所へおもむくと、程なく召集された団員が集まった。何が始まるわけでもなく、長い時間がただ幹部を待つために費やされた。夜遅くようやく幹部が見回りに来た。

「集まれー」の班長の号令で全員急いで横にならぶ。
「気をー つけー」
「右へ ならえ!」
「なおれ」
「番号...整列やすめ」
幹部が前に立つと、異常の有無報告が始まる。
「第○分団第○班、本日の出動人員○○名事故なし。現在異常ありません。」
「よし」敬礼。ここで訓辞を聞く。
「気を つけー」
「かしらーなか」これは敬礼のこと。
「なおれ...やすめ」

 団員みんなで幹部の自動車の横に整列し敬礼で見送る。間違って軍隊に入ったかの様な気分にさせられた。消防器具の点検なんぞ全くされなかった。何の点検なのか全く意味不明だ。

操法は出初め式のため
 消防団でかろうじて消防訓練らしいものは「操法」とよばれる訓練だ。おそらくポンプの取扱方法を訓練するんだろうと、最初は私も期待していた。
 毎年夏に消防操法大会というものが催される。この大会の3ヶ月前から消防団は毎週3回夜の8時から11時までこの大会のための訓練をする。「あつまれ」「きをつけ」「右へならえ」「番号」といった号令からはじまり、4人が一糸乱れぬ動きで、寸分の狂いなく決められた場所に置かれたポンプ1台、ホース3つ、ノズル1つ、給水管1つを(火事の時そんなことがあり得るか)ピストルの合図とともに持ち、決められ場所まで全力疾走する。決められたホースをのばし、それぞれが決められた動作をして放水する。この4人は「選手」と呼ばれる。操法とは合図から放水までなるべく早く正確に決められた演技をする競技なのである。演技という表現を使ったのはこの一連の流れにおいて一人一人の肩の動き、肘の動き、背筋の延ばし方、膝の延ばし方、膝の曲げ方まで細かく型が決められているからだ。この型ではない動きが大会の審査で減点の対象になる。
 それぞれの選手の役割は決められており、選手はそれだけを専門に訓練する。他の選手がすることにはかかわらない。また4人集まらなければできない。これは4人集まるまで火災現場で火が燃えるのを見ていろということなのか。
 私は選手をやったことがない。訓練をするのは大会に出る4人の選手だけ。残りの団員は野球部の新入部員みたいに訓練をボーと見ている。仕事は選手が使ったホースの後かたずけと選手のためにお酒を沸かすことだ。私は消防団に入団して3年間はポンプのエンジンをかけることさえさせてもらえなかった。少なくともその3年間は私は火事が起きても役に立たない名ばかりの「消防団員」だった。
 私は自動車操法というものもやったことがある。ここでは消防自動車の後ろの座席に乗り込み座るというただそれだけの行為を延々と練習させられた。その間一度すらポンプに触れることはなかった。いったい火を消すために座り方とポンプの動かし方のどちらがま必要なのか。ぼう大な時間を「演技」を覚えるために費やし、実践的な部分はほんのわずか、いや全くない。
 私は表彰状の受け取り方の訓練をしたこともある。小学生ですら表彰状の受け取り方の訓練などはしない。私達の生命財産を守るために個人の時間を費やしてやっている消防団活動なのに、なぜこんな無意味な「訓練」をしなければならないのだろう。

一般訓練
 消防団の訓練のうちで多くの時間をしめるのが「一般訓練」だ。消防団員手帳を携帯しているかどうかの持ち物検査(高校生か)、敬礼の仕方に始まり、オイッチニ、オイッチニの行進を延々とする。そして、「本日、みなさんの規律ある行進を見てたいへんうれしく思います。」と式典で来賓がおっしゃる言葉を背すじを伸ばして拝聴する。
 たしかに消防活動に規律は必要だ。だが軍隊行進をすれば規律は身につくものなのだろうか。消防団員は皆行進の最中、「なんでオレこんな事やってるんだろう」と思いながらやっているにもかかわらずである。

日本の消防は規律の意味を理解していない
 自分勝手に判断して行動する消防団員のことをアメリカではフリーランスと呼び規律に問題を生ずるとして厳重注意される。団員が指揮者の命令以外の勝手な行動をとれば、全ての団員の生命が危険にさらされることになりかねない。故に消防活動における規律とは「指揮者の指令に従い団員が行動すること」と定義される。
 このような規律をつくるためには、団員全員がどのように火災に対処するのかという手順を完全に理解していることが必要である。これがないと団員は指示を受けても何をしたらよいかわからずに右往左往することになり、また指揮者がこの手順を理解していなければ適切な指令がだせなくなる。その様な場合の団員はもえさかる炎を前にそれぞれが勝手な行動をする人々でしかない。
 アメリカの消防では消防士が殉職した際の式典以外では消防士が敬礼などしないし、消防士が行進整列などの訓練をするなど聞いたことがない。「本当にないのか」と聞くと、「アメリカで敬礼行進するのは軍隊だけだ」という答えがかえってきた。
 日本の消防団の訓練のほとんどは敬礼や行進ばかりで軍隊みたいである。両者の違いといえば、手にするものが銃かポンプかということだけである。

何もできない消防団員
 さてここで問題となるのは、日本の消防団にはどうやって火災に対処するのかという「手順」が存在しない点だ。私のムラの消防団の「緊急時の対応」には以下のように記されている。

1消防署到着までは、団長の指揮下に入り、消防署到着後は、消防長の指揮下に入る。
2. 火災時に現場へ急行する場合、消防署の車両が近づけるよう、道路等を確保するのも団員の大事な仕事。
3.極力消防署の機械機具を使用する。
4.危険箇所への進入は、消防署職員が行う。

 一読してわかることは消防団がすべき手順については何も明記されていない点である。1は消防署に指揮を移管しなさい。2は消防団は道をあけるのが仕事。3は消防署を優先させる。4は消防団は大切なことは何もするなと書いてある。消防団には火災の対処の手順は全くない。誤解のないように言っておきたいが、操法とはこの手順ではなく単なるポンプの取扱方法だ。
 消防士は家屋の火災で出動した場合に、建物内部への進入が可能だと判断されれば建物に入り人命の捜索救出をする。別の消防士らはホースをのばしノズルを霧状態にして捜索と救出をする消防士を炎から守る。救出の必要がなくても家屋進入が可能と判断されれば建物の中に入り火点への消火作業を行う。これらの手順は消防士にはあるのだが、消防団員にはない。「・・・火の勢いはすさまじく、すでに家中に回り炎が軒下から外へ吹き上げておりました。この場の自分は、幹部として何をどう団員に指示をしたらよいのか考える余裕さえなく、必死に、区のホース格納庫のホースを延長しました・・・ようやく延長が完了し、筒先を手に、『放水してくれ』と叫びました。水がくる間の1秒1秒が無情に永く感じられて仕方がありませんでした。ずぶ濡れになりながら消火活動を続け、ようやく鎮火。ほっとする間もなく、ショッキングな情報が飛び込んできました。そのお宅の御主人が焼死されたのです。消火中に、私達はそのお遺体の目前で消火活動をしていたのでした。消火に夢中で、そのご家族の状況はまったく掌握していなかった事が今でも残念です・・・」  これは県の消防協会主催の消防団員意見発表会で発表されたものから抜粋した。ヘルメットと軍手しか持たない消防団員にとってはここまでが限界であったろう。たとえ初期消火の時点でも屋内には煙が充満しているはずである。消防団員は内部進入ができないため、何よりもまずまっ先にされるべき人命の救出もできず、当然火点までもたどり着けない。消防団には人命救助の訓練と装備とその手順がないからである。

何のための消防団なのか
「消防団の活動は人命に関わることだから、消防団を批判することは難しい」と今まで私は幹部から言われてきた。しかし私は消防団の活動は人命に関わることだからこそ、このままの規律訓練重視の消防団ではいけないと思う。「建物など燃えてしまっても構わない。燃えたらまた建てればいい。一番大切なのは私の部下の消防士の命だ」これは元アイオワ州デモイン市消防署長アームストロング氏の言葉だ。消防団員にも家族はある。アイオワ州消防学校で人命救助の基本は「最大多数の生命を救うこと」だと教わる。一人を救助するために消防士が3人死んではいけないのだ。
 火災鎮圧と人命救助をおこなうのが消防団員である。だが日本の消防団員はまともな防護服と装備と訓練の機会も与えられていない。これがもしアメリカでの現状だったら消防協会が猛烈に反発し労働争議へと発展してゆくことだろう。労働基準違反だからだ。